こんにちは、優木るなです。
私は長年、
・私は母を好きになったことがない
・私は母に愛されていない
と思って生きてきました。
その証拠に、母親との不仲の末、行き着く先はここしかないと半ば諦め半分望み半分で、カウンセリングサービスの母体である神戸メンタルサービスが運営するカウンセラー養成コースに共に入って、共にカウンセラーを目指し、同時にカウンセラーデビューを果たすわけなのですが。
母との確執や、過去というのは、「はい!心理学を学んだので全部全て完全オールオッケー!」となるわけではなく。
自身の記憶や感覚に残っている以上、葛藤や過去に対する思いなども浮かぶわけです。
もちろん四六時中、母に対する葛藤を感じているわけではありません。
今では、一緒に映画に行ったり、電話で推しの話をしたり、一緒にご飯を食べたりと、「ただの親子」になることができました。
母のことを考えない、頭にない瞬間だってあります。(記憶から消し去ったってわけではなく、自分の時間を過ごしている時です笑)
ご飯を食べる時は目の前の牛丼のことに全集中しますし、夫とのデートの時は「どの角度が可愛く見えるか」なんてめっちゃくだらないことにこだわったりもします。
ですが、私自身の問題が浮上したり、夫と喧嘩したり、過去にまつわる出来事に出くわすと、やはり過去の出来事に引っ張られる感覚があるのです。
特に癒しや心理学などの世界に関わっていると、自身の過去を振り返ったり、過去を感じさせることに出会ったりすることが多くあります。
その度に、「また自分の心と向き合わないかんのか」と感じては癒していく、感じては癒していくのですが...。
そんな中で、
「私は愛されていたのか」
ということに関して、特に気になるのです。
この愛されていたのか、という過去に対する疑問。
私の場合は、母や父、夫に対して思ったりします。
特に母に対しては、共にカウンセラーを目指すまで
「この女には人間の心が備わっていない」
「母を殺すか、私が死ぬしかない」
とまで思っていたので、娘としては尚更こだわりを持ってしまうのです。
そして、その答えというものが明確に見つかっていない感覚もありました。
「母は大変だったんだ、でも私がこの歳まで生きているってことは育ててくれたんだ、だから愛はあったはず」
「お母さんにもお母さんの事情があったから、愛は明確に見えるものではないけど、たぶん愛はあったんだ」
半ば自分に押し付けるような答えはあったのですが、しっくりきてないというか。
自分自身に言い聞かせている感があったのです。
さて、今回は
「私は愛されていたのか」
という疑問の解が見つかる出来事があったので書かせていただきました。
|| 思い出
あらかじめ謝っておきます、いきなり話がぶっ飛んですいません。
「TORA TORA TORA」という曲をご存知でしょうか?
女性ダンスグループMAXさんがカバーしたのが有名だったりします。
ですが、ここでいうTORA TORA TORAはMAXではない、そう、パラパラです、あのダンスのパラパラです。
パラパラとは、
1980年代後半に日本で発祥したダンスの一種で、元々はディスコを中心に流行していました。
第○次パラパラブームといったように、何度かブームが起こっており、特に爆発的な人気を得たのは1999年〜2000年と言われています。
私がパラパラのTORA TORA TORAと出会ったのは幼稚園の年長、2001年ごろでした。
ある時、母がパラパラのビデオ(VHS)を見ながら、テレビの前で練習を始めたのです。
なぜ、そんなことをやり始めたのか、母に何があったのか、明確には思い出せません。
ですが、ある日からパラパラを踊り始めた母の隣で、私も一緒に踊るようになったのです。
特に私が好きなのが、TORA TORA TORAでした。
母がビデオをかけ始めると、私も一緒に練習したり。
私一人で見ながら練習したり。
感覚の話になっちゃうのですが、パラパラに触れる瞬間だけは“お母さんと一緒”だったのです。
|| 20年ぶりの邂逅
パラパラの記憶なんてちっとも出てこなかったのですが。
なぜ思い出したのか。
先日、夫と一緒に隣県にある観光地にドライブしに行って、その帰り道のことでした。
私は動画サイト「Youtube」の有料会員になっており、「YouTube Music」というYouTubeが提供している音楽サービスを使うことができます。
YouTube Musicでは、さまざまな曲を聴くことができ、最近のものから古いものまで、洋楽からJ-popから、ジャズやらアニメ音楽やら、本当に多種多様な音楽に出会うことができるのですが。
そこで「TORA TORA TORA」を見つけたのです。
20年ぶりの邂逅に胸躍る私は、夫が運転する車でTORA TORA TORAを聴き、勝手に動く手や体に染み付いたパラパラに大爆笑しました。
|| 愛とは
母とのパラパラの記憶が蘇って、こんなことを思うのです。
「ああ、私ってお母さんのこと好きだったんだ。」
「お母さんの愛し方はヘッタクソだったけど、愛してたんだなぁ」
「親子で楽しいことなんて全然なかったって思ってたけど、他にもあったのかもしれない。」
こじつけや納得させる形でなく、腑に落ちた感覚があったのです。
パラパラを一緒に踊ってくれたから好き、ということではありません笑
母が何かを楽しんだり、一生懸命に打ち込んだり、自分がやりたいことをしている姿に嬉しさや楽しさ、安心感を感じていたんだと思います。
そして、感覚や感情は共鳴します。
私が嬉しさや楽しさ、安心感を感じている時、お母さんも感じていたはずなのです。
不仲で、刃傷沙汰手前の親子の間にも、感情や感覚で繋がる瞬間があったのです。
それは、私と母の間に愛があったという証明にもなるのです。
さて...。
ここまで書いてみて、やはり愛は目に見えづらいなと思います。
愛している、愛されているということは特に分かりづらいものです。
愛が見えないから、愛がなかった。
そう感じるのはごく自然だし、私もそう思って生きてきました。
ですが今は、愛は感じるものなのかもしれない、私はそんなふうに思うのです。
(もちろん、プレゼントや贈り物などの物質的な愛や、行動や言葉などの事象的な愛もあります。)
愛されていたということや、愛そのものにこだわると愛は感じにくいです。
しかし、嬉しさや楽しさ、安心感などの自分が感じた感情から辿っていくと愛に行き着いたりもします。
そして、
「ああ、私ってあの時、嬉しかったり、楽しかったり、安心したのかも」
と、感情を味わえると
「愛があったんだ」
と受け入れられたりもするのです。
自分自身に愛が受け入れられた時、その時にやっとこさ「私は愛されていた」と認めることができると思えたお話でした。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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